生涯学習講演会

生涯学習講演会レポート

多元的共生社会における生涯学習を考えるシリーズ第31回

「それってなんのため?」ってなんのため?

講演者:佐伯 胖 (東京大学名誉教授 / 青山学院大学名誉教授)
日 時:2023年9月10日(日)10:00~12:30
会 場:オンライン開催(ZOOM)

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目的は持っちゃいけない?!

「それって、なんのためですか?」 ワークショップの場、特に大人を対象にした場づくりにおいて、 「事前に意図や目的を理解してからでないと参加をためらう」という場面に出会うことはないでしょうか? また、あなた自身も参加者として、内心「これって、なんのため?」と思いながら過ごした経験はありませんか?

これは、今回のシンポジウムのチラシの呼びかけ文です。内容としては、シンポジウムの打ち合わせのときに出た話題だったのですが、これは重要なことだなあと思ったんですね。というのも、目的を持って考える、行動することは、根本的にちょっとズレてるかもしれんということを思い知らされた本があったからです。それがこの本、『目的への抵抗』(國分功一郎/新潮新書/2023)です。普段、目的をもって行動することが立派なことのように思われる世の中で、「目的に縛られちゃいけない」とずばり言っています。この本は次のように始まります。「自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある」。これには驚きましたね。

例えばですね、食事は栄養摂取が目的だと言われたら、それはわびしい話ですよね。衣服は保温のためと言われたら、いろんな衣装は全部ムダという話になっちゃう。國分さんは、目的を立てなければいけないという考え方は怖いと言うんですね。戦争という目的のためなら、人殺しという手段すら正当化されてしまう、そういう怖さです。我々が「こうすべきである」と意識するときには、背後に目的がある。「そうしなきゃならないのは、このためです」と目的を提示されてしまうと反論できないということはよくあるんですね。つまり、目的が私たちを縛って、自由を奪うことになっていると。「その目的のためなら仕方ないな」と考えてしまう我々は、「そこに自由はあるんか?」とは問うてこなかったのではないか。問うてこなかったということそのものを考えてみてはどうか、ということなんですね。

それで國分さんは、人間が人間らしく生きるには、目的からはみ出る経験が必要であるというんです。「人間らしい生活をするために、私は贅沢をしなければならない」と考えて贅沢をしたならば、それはもはや贅沢ではない。「子供の自主性を育てましょう」なんてことも言われるけれど、自主性を育てようと育てられたなら、それは自主性なのだろうかということ。改めて國分さんの言葉に戻ると、自由というものが目的によって潰されている、だから、目的に抵抗することが大事なんだと。「目的を潰せー!」みたいなね、すごいことを言っているんだな。

人が目的を超えて、自由になるとき

しかしね、國分さんも書いているけれど、「行為」というのは目的があって生まれるんです。コップを手に取るという行為はね、コップを取ろうとする意図、目的が生まれたときに、その目的を遂行していることにほかならない。ただ、その目的に縛られちゃいけないということが非常に大事なことで。例えばね、「文化祭に参加する」という目的のためにグループで話しましょうとなったときに、話をしている中でいろんな話題が出てきて、文化祭とは関係ない話でワイワイ盛り上がったりする。そういうときにふとやってみたいことが出てきて、「あ、これ、文化祭でやってみようか」なんて話になったりする。あくまで結果として、「これを文化祭でやろう」となることが、大事だという話なんですね。目的に縛られていないということが、そこにちゃんとある。目的というものがあってはいけないという話ではないんです。

子供が砂場で山をつくろうとする。山ができるとトンネルをつくろうとなって、トンネルができると水を流したらおもしろいんじゃないかとなる。水を流すと川になって、川ができると笹舟を流したくなる。そのね、「いいこと、思いついた!」ってトンネルをつくったり、水を流したり、そういうことがどんどん起こってくるのが、人間としていいことなんだと。目的をもってはじめてみると、別のことがふわっと立ち上がってくる、それこそが、人が目的を超えて自由になるときなんだということなんですね。

最近ショックを受けた最新の脳科学の話なんですが、コップを手に取るという行為があったとき、コップを取ろうという意図や目的があって、その行為が生まれると思うじゃない。ところが、最新の脳科学では、意図って言うのは行為が始まった、0.2秒とか0.5秒後に出てくるというんです。人間は常にいろんな情報を無意識のうちに処理をしていて、目的を意識するというのはね、人間の体が無意識に行っていることの後付けだと。行為の始まりは無意識のなかでつくられているのだとしたら、目的の意識を暫定的に持ちながら、体がほかのことを求めるのを許すのがいいんだと。思いつくってことは思いつこうと思って、思いついてはいないですからね。そういうふうに考えたらね、國分さんが言っていることは非常に脳科学の最先端の話でもあると思うんですね。人間の体の細胞の隅々が、自然によりよく生きようとやってくれていることに、意識をもって押さえつけようとすることは本来じゃない。暫定的に目的をもって始めてみますけれど、ほかのことをやりたくなるかもしれないよということは、どこかで余地を残しておくということですね。

子供たちの「いいこと思いついた!」って、どういうこと?

ここで紹介したいのが、田園調布学園大学の私の最後の教え子である、矢野勇樹君の修士論文『子どもの遊びに関する一考察―「いいこと思いついた」の意味をさぐるー』です。川崎市子ども夢パークで働く矢野君と、修士論文のテーマについてああでもない、こうでもないと話をしていたときにですね、「子供たちが遊び場で『いいこと思いついた!』って言うの、あれってどういうことなんでしょうね?」と彼がふわっと言ったんですよ! そのとき私はもうね、半分寝そうになっていたんですが、「それ、いいこと思いついたな!」って飛び上がらんばかりに喜んだね(笑)。もともと彼は、遊びとは何かということを調べていたんですね。遊びに関する文献を見るとですね、ほとんど例外なく「遊びは子どもの自発的活動」だとされているんですが、夢パークにいる子供たちを見ていると、遊んでいると言えば遊んでいるし、遊んでいないといえば遊んでいない状態があると彼は言うんですね。例えば、泥んこ遊びをしていると、泥の中にぼーっと座っていたりする子がいて、ただなんとなく泥をいじっているんだけど、ふと「いいこと思いついた!」と言って遊びに夢中になっていくと。いいこと思いつくのは、自発的に思いつこうと思って思いつくのではないんですが、にもかかわらず、子供たちはしばしばこの言葉を発して、夢中になって遊びに飛び込んでいく。つまり、いいことを思いつくことは目的にはなりえないということです。

眠る、見える、学ぶ……目的にはなりえない、中動態の動詞

ではこういうね、もともと目的にはなりえない行為があるのか。つまり、事後的にしか判断できない動詞はあるのかっていうことなんですけれど、あるんですよ、これが! それが「中動態(Middle Voice)」動詞です。能動態と受動態はよく知られていて、中動態というのはあまり知られてないんですけれど、これがね、いっぱいあるんですね。例えば「眠る」。眠るというのは、眠った後に「ああ、眠れたな」とわかる。「見える」というのもね、見えたときに「あ、見えた!」ということがわかる。「わかる」のも、わかったときにわかったことがわかる(笑)。「遊ぶ」というのもね、遊べたときに遊べたことがわかる。やっているときは無我夢中で、遊ぶということは目的には置けない。國分さんには『中動態の世界―意思と責任の考古学―』(医学書院/2017)という本もあって、中動態がいろいろと出てきます。能動態では、主体が出発点になって、主体の外に行われる。ボールを投げるというのは、主体がボールを投げ、ボールが動く。それが能動態です。それを被る、投げられるのが受動態。中動態というのはそうではなくて、主体が過程のなかに入り込んじゃっているという動詞なんですね。「眠る」というのは自分のなかで起こることで、眠っちゃっている状態に巻き込まれているんです。

こういう中動態で表される事態では、主体が動詞の表す過程のなかに巻き込まれて、そこで起こるデキゴトを経験する。このデキゴトっていうのはね、やろうとしてできたことはデキゴトとは言わないんだなあ。デキゴトはできちゃったこと、事後的にしか言えない。「学ぶ」も中動態で、よき本、よき人、よき経験との出会いと交流のあと、事後的に、よく学んだと言える。そうすると、中動態の動詞は全部、目的にはなりえないということがはっきりしてきたとも言えるんですね。國分さんは目的に抗うと言ったけれど、実は、目的になりえない、中動態的な働きを喚起することだと。そうするとですね。これは我々にとっては、「目的は敵だ!」と妙にがんばる話ではないということなんですね。

「遊び心」と「まじめ心」は同時に並存する

矢野君の論文では「いいこと思いついた!」というその後のことは考察されていないんですが、それについて考えてみたときに、かの偉大なジョン・デューイの驚くべき言葉を発見したんですよ。「To be playful and serious at the same time is possible, and it defines the ideal mental condition.(遊び心とまじめ心は同時に並存するし、むしろそれこそが心の持ちようとしては理想の条件なのである)」。『How We Think』(1909年)という本の最後のチャプターのなかの言葉なんですが、これには驚いたですね。普通はね、遊び心の反対がまじめ心で、まじめ心の反対が遊び心。遊んでいる人に「もっとまじめにしなさい」、まじめにやっている人に「少しは遊びなさいよ」と言いますよね。でも、そうじゃないんだっていう。なにかおもしろいことあるかなって、ふわってしているときに、「あ、おもしろい!」ということが見つかったら、熱中したくなる。いつでもまじめに熱中する心の用意をしているし、その逆もある。デューイは遊び心の底流にはいつもまじめ心があるし、まじめ心の底流には遊び心があると言うんです。底に流れているけれど、それが表沙汰にはならない。表沙汰になったとたんに底流に代わる。そういう表に出たり、裏に出たりということを言っているわけです。一方だけにしてしまうと、遊び、本来の学びというのは苦役になる。遊ぶことだけを追求するとおふざけになってむなしくなっちゃう。まじめに熱中することと、自由にちょっと遊んでみることが並存している、表と裏があって、どっちが表に出るかはそのとき次第。その相互の行き来がなくなったときに、遊びはおふざけに、まじめにやるしごとは苦役になるということです。

本来、学びっていうのは、知りたい、やってみたいという好奇心がベースにあるものなんだけれど、苦役になると、知るべき、やるべきがベースになって、それ以外には閉じてしまう。本当だとされていることを勉強して、それは本当かなどと自分では問わなくなってしまう。丁寧に考えよう、落ち度のないように考えようというのが本来の学びのなかにはあるけれど、目標が与えられ、結果は評価されるとなると、そこに縛られてしまう。教えられるときは、人は自分で考えちゃいけない、考えるスイッチを切ってしまうというのが怖いところなんです。でもね、本来の学びでは問うことが重要で、それってほんまかいな、おかしいんちゃうか、って疑ってみる、そういう遊び心が大事なんです。大阪弁だと遊び心が出るね(笑)。

「遊び心」が「まじめ心」になるのは、いかなるときか?

ここで芸術家のことを考えてみると、やっぱり沸き起こってくる思いつき「想」がまずあって、それをつくる作業「制作」はというと、しごとになるんだけれども、そこに熱中するわけです。『芸術の中動態 受容/制作の基層』(萌書房/2013)のなかで森田亜紀は、こうした芸術家の作品づくりを「想が制作に先立ち、制作を規制するというのは工業であり、想が制作につれて湧いてくることこそが、芸術の特徴である」と書いているんですね。やっぱり芸術家には遊び心としごと心が裏腹にあって、それがくるっと行き来する。遊び心からいつの間にかまじめ心が生まれ、まじめな制作のなかで遊び心が湧いてくると。いいことを思いつくのは中動態なんだけれど、思いついたことを実行するのは、森田の言う制作、デューイの言うしごとであって、またその制作、しごとの最中に思いつきが生まれる。いつでもしごとのまじめ心になれるよ、いつでも遊び心になれるよっていう余白がすごく大事なんじゃないかな。

では、遊び心がまじめ心になるのはいかなるときか、ということなんですけれど。『子どもって、みごとな人間だ!―保育が変わる子どもの見方―』(佐伯胖・井桁容子/フレーベル館/2021)の中から、井桁容子さんの実践エピソードを紹介します。保育園児のY君とT君が、保育園の廊下の本棚から絵本を保育室に運び出して、部屋の中央の椅子に置き始めるんです。なんで本を置くのかは分からないけれど、ふたりで顔を見合わせて楽しんでいて、それを見た子たちがどんどん協力して、部屋中本だらけになるわけです。そこで先生が、「うわー、困ったなあ。これじゃあ、みんな遊べないねえ」と話をする。でも、そのあとに「じゃあ、ダンプカーさんたち、本棚までこの本をお願いしま~す!」と言ったら、みんなお祭りみたいになって運んだというね、そういうエピソードです。

「いいこと思いついた!」と熱中して、プロセス自体をおもしろがる。でもふと我に返って、三人称的な、おてんとうさまの目でみると、自然と「これって何のため?」というようなことが起きるんですね。これは元に戻さないといけないとまじめ心になったときに、「ダンプカーさんたち」という言葉でまた遊び心に方向転換したこの保育者はなかなかベテランだと思いますね。遊び心の裏には常にまじめ心があって、逆もまた然り。こうしたね、相互の行き来はどうして生まれるのかということも、残り時間が短くなってきましたが、考えてみたいと思います。

「目的を持つ」「目的に縛られない」を並存させる

こうした相互の行き来ですが、郡司ぺギオ幸夫の新しい知能論、『天然知能』(講談社/2019)で説明できるのではないかと思っています。なかなか難しいんですが、さーっと言っちゃいますと、郡司は知能には3つあると言うんですね。一つ目は「人工知能」。人工知能というのは、知識の枠組みができているところに知識が集約されている。データ中心主義というか、最近のAIやchatGPTにしたって、過去の情報をまとめて提供しているものです。二つ目は「自然知能」です。自然知能は、いわゆる自然科学で解明される客観的な事実の知性です。論理的推論のもとに新しい知識を生み出す、そういうもので固めたのが自然知能。ナチュラルサイエンスにむしろ近いものです。三つ目が「天然知能」なんですが、これはいくら探求しても決着がつかない知。肯定「Aである」と否定「Aでない」が両立する知だと言うんですね。例えば、デジャブ。見たことのないはずの風景が、見たことがあるという感覚をもたらす。見たというAと見ていないというnot Aが矛盾しながら並存していると。東日本大震災の被害者にはですね、被害者意識と同時に、被害をどこか広げた、あるいは「あのとき助けられなかった」という加害意識がどうしてもぬぐえないという感覚があるといいます。そういうことが、天然知能だというんですね。

金子みすゞの「雀のかあさん」や「大漁」という詩も、この天然知能なんですね。「こうでありながら、こうである」というのが並存しているんです。雀の子を捕まえた我が子を見て、笑う人間のかあさんと、それを見ている雀のかあさん。大漁を喜ぶ浜と、弔いをする海の中。それが並存している。私が言いたいのは、デューイのいう遊び心とまじめ心の二重性というのは、この天然知能で説明されるのがいいんじゃないかということなんです。矛盾しながら並存している。「大漁だ!よかった!」と言っているなかで、ふと、亡くす側の想いが湧いてくる。遊び心とまじめ心という矛盾したものを同時に抱えながら、私たちは行動するのだということ。

目的に縛られることには抗うけれど、目的を持たないというのもまたまずい。Aとnot Aを並存させる、天然知能を私たちは大切にしようよというのが、今日の私としては、しっくりくるんじゃないかと思っているというところで、そろそろお時間です。

【グループでの感想共有タイム】
【質疑応答】
※シンポジウムでは、グループ感想共有ののち質疑応答を行いました。