生涯学習開発財団シンポジウム 2015
多元的共生社会におけるコミュニケーション力シリーズ第10回
「しがらみを解く場と学びのデザイン」
〜多様な大人のコミュニケーションを生み出すWSD という学びのカタチ〜
[会場] 京都市梅小路公園 緑の館イベント室
[日時] 3月20日(日)14:00−16:00
[プログラム構成]
第一部 佐伯胖氏 講演(14:00−15:00)
第二部 みんなでトークセッション!(15:00−16:00)
講演:佐伯胖氏(田園調布学園大学大学院 教授)
ナビゲーター:蓮行(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任講師)
聞き手:中脇健児(特定非営利活動法人ワークショップデザイナー推進機構 理事)
「多元的共生社会におけるコミュニケーション力」シリーズ第10回は京都で開催されました。シリーズの趣旨は、これからの社会を生涯学習社会として位置づけ、その有り様を“コミュニケーション”、“アート”、“学び”の 3 つの視点からあきらかにしていく試みです。
0.序
「ほんとうの学び」の場づくりを深く研究してこられた認知心理学者の佐伯胖氏。氏は、WSD のスタートにも深く関わっておられます。前半は佐伯氏の講義、後半は佐伯氏の講演内容についてのトークセッションを行い、参加者と登壇者の距離が近い参加型のシンポジウムを開催しました。
1.ご挨拶(中脇・蓮行)
WSD 推進機構理事の中脇より今企画の成り立ちや、第二部トークセッションの進め方についての説明を行いました。
参加者は配布された白紙に佐伯氏の講演で気になった点を記入、二部のトークセッションで使います。
また、会場の壁面にはホワイトボードや模造紙が貼られており、4名の WSD 修了生が同時にファシリテーション・グラフィックを行っています。第一部と第二部のあいだの休憩時間には、この図を見て講演の流れを確認することができます。
続いて、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任講師の蓮行氏よりご挨拶いただきました。
今回はシンポジウムの時間も短く設定されたため、佐伯氏のお話をより長く伺えるようにとナビゲーターの役割を中脇氏にまとめたことを説明。ご挨拶も手短に行われました。
2.第一部:佐伯胖氏講演
(以下講演の要旨を掲載します)
<日本人には一人称がない>
1968年、私はフルブライトの奨学金を受けアメリカに留学しました。息つく暇もない授業の日々。くたくたになりながらもなんとかやり過ごし、やっと休日がきて、友達同士で講義の内容か何かを話し合ったときのことです。そのとき、友人がこういったのです。
「おまえの話は“何が真実だとみなされているか?”ばかりだ。おまえ自身は、いったい何が真実だと思っているのだ?」
それを聞いて私は大変衝撃をうけました。それまで、学問というものは、何が真実なのかを調べて、整理して覚えることだと思っており、自分が真実を探すということなど、とんでもない、大それたことだと考えていたからです。
日本に帰ってみると、論文も What suppose to be true?の論文ばかりでした。「〜が言っていた」という情報ばかり、引用ばかりになっているのです。
<幼稚園における集団主義による統制>
こういった、一人称で考えない、三人称で考える、というやり方は、幼稚園のころからもう始まっています。 たとえば、幼稚園の先生がたは子どもたちにこう呼びかけます「『うめぐみさん』はあつまりましょう」と。また、親側も家で子どもに問いかけます。「今日、みんなの仲間に入れてもらえた?」
なぜ、日本では集団グループが大切なのでしょうか?
それは、安心社会と信頼社会の違いである、と私は考えます。安心社会では、「仲間」であることの連帯感を大切にします。コミュニケーションも、「仲間」であること、お互いに裏切らないことを確認しあうためのものとなります。これがアメリカの社会と日本の社会の大きな違いです。
こんな実験がありました。チームで行うゲームなのですが、最初の一手を「相手は裏切るかもしれない」と想定するか、しないかを図るという実験です。日本では「相手はひょっとすると裏切るかもしれない」と想定する一手をうつ人が多いんですね。アメリカではその反対の結果、つまり「とりあえずは信用しようではないか」という一手をうつ人が多かったのです。
また、いろんな人物の顔の写真を見せてこの人がどんな人かを当てる、という実験も行われました。この実験の結果、アメリカ人はどんな人かを相手の表情ではかるっていた。日本人は、個人の猜疑心にその結果が反映されました。
<一人称的「自分」の復権>
とある学校の学長を行っていたときのことです。とある学生が私のところへ相談をしにやってきました。
「そもそも学力について周りの人間が定義することがおかしい」と憤る相談者。彼が最近発見したことに対して周囲にバカにされたというのです。
右利きの彼はしばらく牛丼を左手で食べてみようと思い立ち、左手に箸を持って食べていました。しかし、なかなか右手のようには食べられない。そこで、一度箸を右手に戻してで食べてみた。すると、実は丼を支える左手が上手に傾きを調整していたのです。それは彼にとってとても深い学びであり、周囲の友人に伝えたのだが、だれもまともに取り合ってくれなかった。そこで彼はこう思ったそうなのです。「どういうことが学びかは、本人がきめることだ。」
この話は、たとえば人工知能学会の出している「一人称研究のすすめ」と同じです。「本人にとって面白い経験、ワクワクするような経験は、大切」なのです。本人が面白いと感じることを試しながら、だんだん物事がわかっていくような論文には「それはあなたにもあるんではないですか?」という触発的なヒントがたくさん出てきます。
スローガンは「面白くなければつまらない」。「面白いかな?」ということに敏感になるのが大切なのです。
<学びにおけるアート性>
最近の研究から、幼稚な絵画表現は抽象的な概念会得に関係していることがわかっています。
(ラスコー・ショーべ洞窟の壁画をみながら)ショーべ洞窟の壁画は私も実際にみたことがあります。これは、洞窟の実際の凹凸を活かして、絵画を描いていることがわかります。全て描かれているのは野生の動物なのですが、優しい顔をしているように感じます。
こちらは、古代エジプトのトークンです。(数や小麦、動物を表象しているコインのようなもの)そして、こちらがトークンを入れる壺です。よく見ると、文字や記号というものは、平面に描かれていません。穀物の丸みや、そういったものをあらわしているようです。「このとき、あの感じ・・・」という事実の実態を彷彿とさせるための文字。文字の紀元というものは、そこから来ています。
人類にとって、現代の世界のように「文字」や「数字」で考えるのは本来タダゴトではありません。ずーっと長い時間、人は絵で考えていたのです。
<「文字」的思考と「絵」的思考>
「絵」的思考には、三人称的な評価がありません。一方、「文字」的思考は三人称的な評価を下します。
この絵はフェルメールの「牛乳を注ぐ女」の絵でですが、このミルクは、今注ぎ始めたところでしょうか?それとも、注ぎ終わらんとしているところでしょうか?・・・お分かりになった方もいらっしゃるかと思います。これは、注ぎ終わろうとしているところですね。今から注ぎ始めるところならば、ミルク壺の中のミルクが見えるはずです。
絵は「今、なにが起こっているのか」という動き、時間の流れも含んでいます。
これは私の娘が算数の引き算がわからずに悩んでいた時の話です。「59−20=」とかかれた問題がわからない。そこで、私は絵を描いてみるようにつたえました。子どもは 10 円玉が5つと、1円玉を9つ書きました。「ひく」というのは、プレゼントしてあげることだ、とつたえると、子どもは、まず、10円玉二枚を×印で消しました。これだとよくわからなかったのか、こんどはその×印のうえから箱の絵を書き、プレゼントのリボンを描いたのです。×印をつけただけでは娘のなかで20は消えないかったのですね。プレゼントの箱にいれたらなくなることがわかります。
一方これを数式で書くこともできます。「59−20=39、59=20+39、20=59−30」しかし、これらの数式というものは、推論・規則というものをもっていないとわかりません。
<応答する自己を発見する>
絵的世界は、それに応答する自己を発見するものです。自分を大切に思うと、他人も大切に思うことができます。人は呼びかけられることで、一人称性の確立と同時に、応答する他者を発見します。相手を「二人称的にみる」ということは、相手のことを人間としてみる、つまり情感(affection)をもつ存在、何かを訴える主体としてみるということです。
また、相手のことが「わかる」、というとき、「わからないかもしれない」という未知性、不確定性をつねに想定しなければなりません。つまり、「驚き」に自らを開くということ。「最近驚いたことがありますか?」と尋ねられた時に、「特に無い」というのは、あまりいい状態ではありません。私自身が「本当は何なのかな?」で生きていくこと。このように、他者と二人称的にかかわることで、自らの一人称性をもとに、ひとりの人間として他者を人間として尊厳ある人間としてかかわることになります。
私は認知科学学会を発足したときに「認知科学とは何か」を定義したらいけないと、提唱しました。しがらみを解く、グループ意識を捨てろ、というのが私が言いたいことになります。
3.休憩
休憩を利用して、講義で惹きつけられたり疑問に思った点を書くよう連絡がありました。
また、まわりのファシリテーショングラフィックを記録する参加者の姿も多く見られました。
4.第二部:みんなでトークセッション(ナビゲーター:中脇)
第二部開始とともに、参加者同士で4、5人とグループを作るよう促され、それぞれ感じたこと・疑問に思ったことなどを共有する場が持たれました。
その後、中脇のファシリテーションにより、各グループで出た意見を聞く時間となりました。
Q「『絵的思考』の可能性について、もっと聞きたい」
中脇「ほかに、絵的なことについて聞きたいグループや個人はいるんではないでしょうか?」
Q「文字・数字で考えがち。美術系教育のありかたについて」
Q「LINE というのは、しがらみ、安心社会の最たるものかと思うのですが、しかしスタンプ(絵)で表現していますよね・・佐伯先生はどう思われますか?」
佐伯「まず、LINE のスタンプ、あれは、絵のようで絵ではありませんね。記号です。同調確認以上のものにはならないのではないでしょうか?絵というのは、自分で略図化した世界を描き出すのです。
教育の方法ですが、なんでもいいんです。文章を、まず絵で理解させる。考える原点に絵がある。感じたことを言葉にすることが学力、という今の文科省の流れには反対です。「美術教育」というジャンルにこだわることに疑問があります。
また、考えて文字にしたときに、「絵」を思い浮かべているか?そのことが大事です」中脇「なるほど。そういう場はどこでできるでしょうか?」
佐伯「なんでもいいんです。文章を読んだら絵にしてみる。」
Q「私、就職面接の指導をしているのですが、そのときに、学生さんが自分のエピソードを話す機会があります。面接官が学生のエピソードを思い浮かべられるように・・・と伝えているのだが、それでいいんだなと今回の話を聞いて思いました。ありがとうございます。」
———
Q「アートと一人称のつながりについて、もう少し詳しく知りたい。一人称から二人称へのつながりについてはもう少し詳しく知りたい」
佐伯「一人称から二人称へのつながりについて話すと2時間くらいかかりますので・・・。しかし、こういう例がありました。芸術家を学校に派遣する授業で、とある小学校に一流のダンサーに来てもらってパフォーマンスを見せてもらったことがあります。はじめは、教員や私たちも「真似できない圧倒的なものを見せたら子どもたちは戸惑って、動けなくなるのでは・・?」と心配していましたが、実際はその逆でした。
ダンサーの一人称性、表現の根っこにあるものが、観客に感染したのです。『一人称性の復権がアートの源流にある』といえるでしょう。」
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佐伯「二人称性についての関わりが大事、というと「どうすればいいの」という三人称的に翻訳したがりますが、これがいけない。一人称的であれ、と言いたい。」
中脇「われわれファシリテーターは、一人称性を大切にしていると思いますが、実際にどのように関わっていくべきか・・・」
佐伯「その、『〜すべき!』というのが三人称ではないでしょうか?」
(会場、沸く)
佐伯「『徹底的に好きになれ!』ということなんだよ。『おぬし、それ、いいじゃない!』で、いいんだよ。」中脇「そうか、いいのか・・・」(会場笑)
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Q「一人称性について、私は、自由な個に戻っていく組織を作るには、適材適所で動くということかと思っていますが」
佐伯「組織を動かそう、ということがむりなんだな・・。ただ言えるのはお互いがお互いをきちんと聞くということ、結果的に組織が変わっていく。『何か言いたいことがあるにちがいない』と思って、他者の中に尊厳を見る、ということですね。
たとえば、イタリアの独立都市で大切なのは権利ということ。ひとりひとりが持つ権利をいかにして守るかということなのです。この都市では、障害者に対しては『特別な権利をもつ人たち』というように言います。子どもに対しても。ひとりひとりの権利を大切にした上で、共同体が出来上がっていったという歴史があるのです。
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Q「プロボカティブについて詳しく聞きたい」
佐伯「宮台真司氏は学びの勉強の動機付けは、「感染」だったと言っています。彼は、「廣松渉先生にあったとき、言葉にいえない凄さを感じ、それに感染した。「そういう風になりたい」と思った。」と。
好きも嫌いも感染してしまうものです。本当に学ぶときは、そういうことが起こる。親一人称が起こる。師匠と師弟の関係ですね。
本気で一人称を生きている人に学ぼうとすると、本気でその人はその人なんだ、とい生き様が乗り移る。それは、決して悪いことではないと思います。」
Q「先生は『声』をどのようにとらえていますか?」
佐伯「声は単独では存在しません。流れがあるし、意味がある。国語のとある先生の授業の話です。朗読などでは、みなさん上手に読んでいる。しかし、「あ、龍だ」という時、龍はどこにいるんでしょうか?と、先生はとかれました。
声というのは「対象」、「何か」について発せられるのが、本当の声です。そういった声が失われている、というのは大問題ではないでしょうか?」
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Q「自分がわからないことに気づくには、どうしたらいいのか教えてください」
佐伯「自分を二人称的に見るということが必要なのであと思います。私というものを未知なる存在と考える。それは、未知性がある。わからないところへの気づきはそこから始まります。(三人称化しない)」
以上で終了時間となりました。
その後、懇親会が会場隣のレストランにて行われ、まだまだ一人称的な考えについて、絵画的思考についての活発な質疑応答が行われていました。