生涯学習開発財団シンポジウム
多元的共生社会におけるコミュニケーションシリーズ第2回
「学びとアート」の関係を問い直す
[日時] 2013年6月16日(日)
[会場] 東京大学情報学環福武ホールラーニングシアター
[プログラム構成]
講演:佐伯胖氏(青山学院大学ヒューマン・イノベーション研究センター所長)
ナビゲート:苅宿俊文
■佐伯先生講演 Part2
「ダイエット算数」の再考
佐伯先生は、学びほぐしが、知の生産者、イノベーターを生み出すもので、ここでそれを生み出すモトから考えようと話を進めます。 「1982年に、研究者がカリフォルニアのサンディエゴで最新の話題を紹介していました。原稿を読んだ時に新しい認知科学の潮流か?と驚きましたね。それはダイエットをしている人がどうやって計算しているかの紹介でした。」
<カッテージチーズ問題>
- ダイエット中の人が料理を作っている。
- レシピすべて定量の3/4にしなければならない。
- カッテージチーズ2/3カップの3/4を量らなくてはならない。
- 数学的な計算式はあるが、でもダイエットしている人は計算などせずに、パンの上に2/3カップのカッテージチーズをのせて指で十字を切って1/4を戻した。
似たようなものに<サラダドレッシング問題>などもあり、86年に博士論文になっている。
このダイエット算数から、古代ギリシャの数学的思想(ソクラテス前 B.C.600〜B.C.300)イオニア学派と、ギリシャの科学思想の始まりであるピタゴラス学派の説明につながっていきます。
<イオニア学派>
イオニア人は船により商業、公益中心で奴隷制はなく、階級意識もあまりない。重工業、労役、技術に対する蔑視はなかった。無宗教、技術と結びついた科学観。
- 実践知—すべてはやってみなければわからない
- 経験知—「こうやると、こうなる」、「○○は時間が経つと△△になる」
- 実験値—「こうやってみたら、こうなった」
- ヒポクラテス(BB..CC..4世紀)—「医学の父」イオニア学派。科学としての医学を確立。 様々な患者さんを看て様々な処置をすることを大切にしている。
<ピタゴラス学派>
科学に宗教性を持たせ、「数」が万物の起源だとする。宇宙を支配しているのは「数」なりとする。当然マインド(心)も。
天文学—宇宙はどのように成り立っているか、星はどのように動くか、設計論ピラミッドの設計。図面上で計算。音楽の楽典を始めた。
この学派の科学観をもとに佐伯先生はその特質から知の話へ向かいます。
「イオニア学派の学びの特質は、『無目的性—何が学ばれるかは、学んでみるまで分からない。漠然とした見通しと暫定性が大切』であり、分かったときに驚きがある。統合的知性であり、『こんなことかなあ」という予想から、『そうか分かった」と驚くんです。そして、『共感性—その場にあるモノになり、そのモノから見えているものをとらえてなにものでもなくていられる力』となります。それに対し、ピタゴラス学派の科学思想は、ものごとの探求はすべて数理の世界で行われるべきであると考えている。数理の解明、公理、定理の適用で推論し解決していくんですね。問題を数理的問題として定式化して、数理的解決の選択をして解答していくということです。機械的にものごとが動いているだけ、本当の世界がどうなっているかなんて考えていない。将棋、ゲームの時も同じです』
無関係対象からの独立性
「当面焦点化している対象についての判断が、その対象を“無関係“とされる対象の判断に影響を受けない」ということで、これはほとんどすべての『科学』が前提にしていることです。約束事の中だけで考える決め方の論理。数理の世界では推論は無関係対象からの独立に行われるべきであるという『無関係対象からの独立』ということがいかに近代科学を作ってきたか。まず、それをやめてみる」
「イオニア学派とピタゴラス学派はどこが違うかというと、ピタゴラ学派は、すべて数学の世界で、初期条件、求めたいこと(目標)をあらかじめ『数学的』に設定する。そして何らかの数学的規則、公式から解を求めるのです。それに対して、イオニア学派は、『実践の世界』。とりあえず、周辺のモノ、コトを見て求めたいこと(目標)を想定して、対象を動かしたり、操作したりしながらそのつど、目標達成の可能性を探る。算数を『公式に展開』として見るのではなく、モノ的世界との対話で見るのです。」
子どもはイオニア的思考で考える
「ここで、違う問題も見てみましょう。意味が発見される瞬間です。」と佐伯先生は続けます。
<お金の問題>
親:59-20は?
子(6歳):57
親:そうかな?じゃあ、59円から20円引くといくら?
子:引くってどういうこと?
親:ようするに人にあげちゃうってコトだよ
親:(お金の絵を描いて)「まず、こうなっていたのが」
子:「こうなっちゃうってこと?」(引く分の20円をバッテンをしてから箱に入れてリボンもかける。)
<飴の問題>
たろうさんは飴を3個もっていました。おばあさんが飴をいくつかくれました。
いま、たろうさんは飴を7個持っています。おばあさんは、飴をいくつくれたのでしょう。
こども:????
先生:どこか分からないの?
こども:おばあさんが、飴をいくつかくれましたっていうところ
先生:うーん。そこが知りたいところなんだけど
こども:なんでおばあさんがいくつくれたか分かんないのかな?
先生:そうだね、たろうさんは最初飴を3個袋にいれていたんだけど、おばあさんがぱっとその中にいくつか飴をいれちゃったんだ。あとで数えたら7個あった。
こども:なーんだそれならおばあさんは飴を4つくれたんだよ
「3+□=7 先生的にはこれなんだけど・・・」と佐伯先生。
「ピタゴラ思考が行き詰まるとき、イオニア思考が救うんです。例えば、3+□=7では、まず3を見る。何かみえないものがある□。
その後ぱっと7が分かる。□に何かあったんだろうなあということです。実践の世界だと、実践者だったら、おばあさんがいくつくれたのか、なぜ分からないのかという疑問にひっかかる。ここでさらなる探求がはじまるが、ピタゴラス的思考で考えると、ピタゴラス的思考は袋なんか関係ない。ルールだけで答えを出そうとするのです。何かを見るときに特定の部分を切り出して(フレーミング)、それ以外の何かは当然「無関係」とみなし(マスキング)ている。イオニア的な算数の理解は学校では禁句。禁じ手です。1、2年生は絵を描いてもOKだけど、3年生ではもうだめなんですね。しかし、アートの世界ではそれがOKです。」
学びとアート
お腹の大きな女性がひとり、手紙を読んでいる絵がスクリーンに映し出されました。
「絵を観てみましょう。手紙を見ている、妊娠しているという部分を見て、ご主人からの手紙なのではないだろうか。想像でいろんな話が出てくる。これって何だろうと言う感じ。
何かを見るときに特定の部分を切り出して(フレーミング)解釈し、それ以外の何かは当然『無関係』とみなし(マスキング)しているが、そしてそれを何回も繰り返して意味を深めていくことがアートでは当たり前。『枠付け』と『シンボル化』です。『枠付け』とは、対象世界を『焦点化される領域』にスポットを当て、『それ以外』を暫定的に『マスキング』して『見えない』ことにする『暫定的無関係化』。『シンボル化』とは、対象世界を特定のシンボルの世界のものとみなし、さらにそのシンボル世界での操作(規定された展開に変容)を実行することです。それ自身を枠に入れて見ることでその人らしさが出てきたり、思いを馳せることができるようになる。新たな世界が生まれてくる。どこから観るかという枠組を作って、枠組みの中に納めて見る。
これは『作品化』であり、さまざまな可能的世界を展開しているところで、この“見え(シーン)”を固定化することで、あとで繰り返し見直し、鑑賞(Appreciation)することを可能にし、それは次のステップ(新たな可能的世界)の準備として資源(リソース)になるのです。新たな可能的世界は、何か分からないけど、いいことが生まれる予感があるもの。良きことの予感がある。ここから生まれるぞという感じ。それが作品化の意味です。 作品の過去→現在→未来を、経験の固定化『過去(発見と驚き)・現在(鑑賞)・未来(改善改良の予感が生まれる)』することで、作品化する。」
佐伯先生のアートの話は深くなっていきます。
「そこにはモノとの対話が生まれるのです。モノとの対話とは何か。それは、『切りとられた世界』を意味づけるものです。」
<モノとの対話>
- みなし「○○」だと見なす(シンボル化)
- 可能的変形「もしも、・・・だったら?」
- リ・コンフィギュレーション(移動と配置換え)
- 視点転換(どこから見るか、カメラアングルを変える)ダイアログになる
- 描き直し
「この描き直しと見なし直しにモノとのダイアログが生まれるのです」佐伯先生は続けます。「写真を撮ったりする人もそう。このシーンをちゃんとシャッターで切っておこう。
何かを切り出そうとする。あとで見直したときにあらたな可能性をひきだせそうだなあと感じているんだと思います。作品は他人に見てもらうための暫定的な固定化になるのです。過去の驚きの文化作品として展示するということで、アートの世界は積み重ねられていく。」
「教え主義的教師から見たら勉強しかない。学びを見守る教師というのは子どもの活動をこのように『作品化』して見る。子どもの活動を自分で記録に残して、今後子どもの学びを展開するときのリソースとしてみる。学びを見る教師のまなざしが、じつはアーティストがアートを作ろうとしているのと同じなのです。子どもの中から、すばらしいモノを見たときにこの瞬間は作品にしなくてはいけない。自分の教師経験の中で永遠に忘れてはいけない大事な子どものありようだったんだ。これをちゃんと残しておこうと思うモノを授業記録にする。こいうことが本当の教師が教育自身としてアートの営みとして教育を見るということと共通している。」
枠付けのシンボル化で生み出されるもの
「新しい『解釈』の可能性の発見や予想外な驚きが枠付けのシンボル化で生み出されます。
『網掛け』の投げかけと意味づけの模索とは、こういうことか、こういう側面がある、こういう風に解釈できると考えていけること。これは重要です。イオニア的学びの特性です。
あらためて、『無目的性』ということに立ち返りましょう。勉強とは、『教える』と言うこと。『無目的』ということはない。目標を明確にしなくてはいけない。これに反して、イオニア的思考は『無目的』。サッチマン(Lucy Suchman:人類学者)は『目的や計画は漠然としたものでなくてはいけない。その都度発見がおこるものでなくてはならない。』と言った。私の定義では、『次にどうなるか』は『予見』ではなく分からないことをまっすぐ受け入れる『希望』だ。
この『希望』を教育者こそ持たなければいけないのです。また、学習者も学んでいくと時に持ってもらいたい。次にどうなるかが予見としてみえていることではなくて、分からないことがどんどん増えていくんだけれども、それを真っすぐに受け入れていく。きっとなにか良いものがもっと見つかるに違いないという『希望』を持って、私たちが世界と接する。あらゆる種類の学びがそうであって欲しいということです。それはアートの活動だとキーツ(詩人)が言っています。『Negative Capability:なにものでもなくいられる力』とは、19世紀のイギリスの詩人 ジョン・キーツの言葉です。」
『想像力が美として把握したものこそが真実であるに違いない』
そして佐伯先生は大切なメッセージを繰り返して終わります。
「そのままの状態をすっぽりと受け入れる力。『次にどうなるか』は予見ではなく分からないことをまっすぐ受け入れる『希望』として受け入れること。これがアートの知であり、あらゆる知の源泉であり、特に統合的な知というのは、これによってしか獲得できない。
アートの知というものこそが、本来的にはアートとアートでない世界があるということではなくて、本来的に知というものの原点がココにあるのではないかと私は考えるのです。」
Part2 終了
Part1を見る