博士号取得者インタビュー
2022年(令和4)年度 博士号取得支援助成金授与
2023年3月 京都大学博士号(教育学)取得
綾部宏明 さん (取得時54歳)
【論文テーマ】
図表を活かして文章題を効率的に解く指導の認知神経科学的研究
Cognitive Neuroscientific Research for Developing Diagram Use Instruction for Effective Mathematical Word Problem Solving
民間教育現場の気づきから研究と提言に発展
「博士号に挑戦」という意識はなかった
小学校の算数を思い出してほしい。①「Aさんは9時ちょうどに時速4キロで歩いて出発し、Bさんはその10分後に時速10キロで走って出発。BさんがAさんに追いつくのは何時何分でしょうか?」。②「2つのサイコロを振って、出た目の和が7になる確率は?」。①は横軸に時間、縦軸に距離のグラフを、②は縦横各6マスの表を描くとスムーズに解きやすい。
1991年から学習塾を経営する綾部宏明さん。文章題を解く際に図表の活用が有効であることはわかっていたものの、指導経験から、同じように指導しても活用できない生徒が多数いることが悩みで、課題だった。実は、理数系の教師にとっては当たり前の「図表を描く」という作業が、そもそも子どもたちには難しかったのだ。図表が威力を発揮する問題の正答率は長年低いまま。その理由は、問題解決のために自ら図を描くという学習単元が、学校カリキュラムになかったことがあげられる。それに気づいて、解決の糸口が見えたこと。それが、綾部さんが本研究に取り組むきっかけだった。教師として教えるうえでの課題と子どもたちの未来のために。研究を通して教育的な問題を明らかにし、解決したい。気がついたら博士研究になっていた。
学習塾の生徒や親も協力
まずは放送大学大学院に入学し、学力形成に関する基礎的な調査をした。すると、学習内容が難しくなるほど「学んだ力」だけでなく「学ぶ力」が重要であることに気づいた。その場しのぎの詰め込み学習では学ぶ力は高まりにくく、せっかくの努力も報われにくい。ここで学習塾での経験的な知識と学術的な知見が結びついた。そして、「学ぶ力」を育成するためには、教育心理学や認知心理学に基づくアプローチが有効だと考え、2015年、解決のヒントになる研究を進めていたエマニュエル・マナロ教授のいる京都大学に進んだ。
博士研究途中には、文章題を解くために図表を使っているときの脳波や脳血流量を測る実験を京都大学で行った。ところが、学習塾の教え子やその保護者が、地元の岐阜から京都まで足を運んで協力してくれた。成果を教育現場に還元し、研究を支えてくれた方々に恩返ししたいという思いがさらに強まった。
図表を使うための知識とスキルが必要だった
生まれつき頭が良い・悪いといった子どもたちの資質の差はそれほど大きくはない。むしろ「努力できない」と「努力してもできない」という壁が鮮明に映った。勉強をしなかったからできないのはまだ納得できる。しかし、同じ努力させておきながら「できる子」と「できない子」を作ってはならない。綾部さんはそう考えた。そして、その問題の解明に挑んだ。
第1の問題として、なかなか伸びない子は教師の指導に依存するあまり、自分で考えて図表を使うことができないことがわかった。第2に、多くの生徒が文章題をうまく解くために役立つ適切な図表を選べないという問題があった。どんな図表が役立つかという図表の適切性に関する検討はまだ十分にされておらず、教師も頼るべきガイドラインもない状態。第3は、適切な図表を作成したにもかかわらず、正解を導き出せない生徒が多いこと。表やグラフを使うにはスキルが必要であることもわかった。
綾部さんは、これらの知識やスキルの役割を確かめるために、教育実践、心理学、脳科学からアプローチを図った。国や学校教育のしくみを変えなくても、現場から学んだ知識と経験に学術の力をかけ合わせれば、だれもわからなかった解決法にたどり着ける。このことに気づかせてくれたことが博士研究の最大の意義であったと綾部さんはいう。今後は、ここで得られた手法を教師が授業の中で活用できるよう、学校教育の現場で応用可能な教授法を開発するという。
コミュニケーションなど社会課題解決にも
今回の博士号取得によって大学講師のオファーが増え、企業のコンサルティングにおける評価が高まった。今後は、教育実践研究を進めて積極的に成果を報告するとともに、協同場面におけるコミュニケーション促進のような社会全般で役立つより広い目的に図表を活用できるよう発展させたいという。さらに、先送りしていた「努力できない」という動機づけの問題を解明するために、「報酬」や「褒め」が脳に及ぼす影響を次の博士号研究として着手している。
現在の教育現場は、教師のなり手不足、リモート授業、AIの活用など、さまざまな課題を抱えている。これらを解決するためには、仕事と学びをくりかえすリカレント教育や生涯学習は欠かせないと綾部さんはいう。「年齢上限を定める助成事業がほとんどの中、唯一下限を定めた本助成事業には素直に驚き、励まされました。世の中で役立つ研究のほとんどは社会経験があってこそ花を咲かせます。本助成事業はリカレント教育や生涯学習を志す者を元気づける肥料になりますし、すばらしい研究を実らせる土壌ともなるはずです。」