水色のパフスリーブに身を包んだ少女が描かれている一枚の絵。
その大人びた姿、品のある佇まい。
笑顔を見せない表情には、どうしたのかなと想像力をかきたてられます。
背景には木立があるので、屋外にイーゼルを立てて描いたのでしょうか。
静かに魅入ってしまうこの絵の作者は、アニー・バロウズ・シェプリーです。
1898(明治31)年に描かれたこの絵は、それから122年後の2020(令和2)年、オーストラリアから生涯学習開発財団(以下 財団)にやってきました。
アニーはボストンとパリで美術を学び、アメリカで肖像画家・イラストレーターとして活躍していました。好奇心や冒険心に富み、世話好き。そんな彼女は、使用人として雇った日本からやって来た19歳年下の留学生 大森兵蔵と意気投合。出会ってから1年ほどたった1907(明治40)年にアメリカで結婚。翌1908(明治41)年、二人そろって日本にやってきます。
来日後、当時はまだ珍しかった福祉事業に取り組んだアニーと兵蔵ですが、1913(大正2)年、結婚からわずか5年で兵蔵が急逝してしまいます。その翌年、アニーと知り合い、よき片腕となり、彼女が亡くなるまで親身に支えたのが松田竹千代でした。
竹千代は尊敬するアニーのもとで福祉事業に情熱を傾けます。このボランティアがきっかけとなり、同じくボランティアに参加していた兵蔵の姪 澄江と結婚。竹千代の娘 松田妙子は、社会貢献に熱心な大叔母アニーや父母の活躍を幼い頃から見ていました。長じて当財団の理事長に就くと、兵蔵やアニー、父母が大事にしていた志「社会のために尽くす」を事業に活かしていったのです。
そうした縁から、財団はアニーが晩年を過ごした河口湖の別荘「有隣園」を管理しており、そこにアニーの絵と蔵書を大切に保管しています。
ドラマの小道具としてNHKに時計や懐中時計のチェーンを貸したのが、オーストラリアでアンティーク時計専門店を運営されている林 誠さんです。林さんはドラマで見たアニーの人生に感動し、記念にとアニーにまつわるものを探し、アメリカの画商から彼女の絵と数冊の本を購入。自店サイトにそれらを非売品のつもりでアップします。
翌2020(令和2)年、たまたま絵の存在を知った妙子の次女 佐藤玖美が、姉で財団の事務局長 佐藤梨奈に連絡をくれます。事務局長はアニーの話を両親から聞いて育ったため、知らせを受けてパソコンの画面越しに絵を見た瞬間、「やっと会えた」、そう思ったそうです。
出会いに感動した事務局長は林さんに連絡します。財団とアニーのかかわりを話し、もしよければアニーの絵を譲っていただけないかとたずねたところ、林さんは財団なら絵の嫁ぎ先として最適だと快諾してくれました。
アニーは日本に来てからも絵を描き続け、帝展で入選もしました。しかしその多くは1945(昭和20)年の空襲で焼けてしまったので、10歳の姪を描いたこの絵は現存する兵蔵の肖像画などとともに、たいへん貴重な一枚といえます。
言葉も食も習慣もアメリカとはまったく違う日本での生活。アニーは毎日、日本語のレッスンを受けながら、夫婦力を合わせ、兵蔵の夢であるセツルメント運動に熱心に取り組みます。二人は約3年かけて、子どもの遊びと教育の施設「有隣園」を立ち上げました。
ところが1912(大正元)年、兵蔵は日本がオリンピック初参加となる選手団の監督に選ばれ、アニーも同行してストックホルムへ向かいます。その帰途、立ち寄った先のアメリカで、兵蔵は残念ながら帰らぬ人に……。
アニーにはそのままアメリカに残る道もありました。しかし、「ヒョウの仕事は私がやり遂げる」と日本に引き返します。
「有隣園」に戻ると、早速、園長に就任。オープンマインドで明るい性格、楽しい遊びや行事を次々に作り出すアニーに子どもたちもすぐに懐きます。竹千代を含めてボランティアも集まってきました。質の高いプログラムを組み、子どもの主体性を重んじた「有隣園」は、やがて人気幼稚園に。本物の馬や牛まで登場した「有隣園」のクリスマスは、子どもたちだけでなく近所の大人も毎年楽しみにしていました。
社会福祉の第一線で毎日現状に接するアニーは、これからは子どもだけではなく、青少年や大人のためにも本格的なセツルメント運動を始めた方がよいと考えます。子どもの環境だけを整えても、周りの大人が健康で余裕がないと元も子もないからです。そこで私財を投じ建物を増築し、夜学校や診療所まで開設しました。
1923(大正12)年におきた関東大震災では壊れずにすんだ建物を利用して、被災者の救援に奮闘。300人の迷子の面倒もみました。当時、いわれなきデマが流れて行き場を失った在日朝鮮人たちもかくまいます。そのことを密告されると、「私が絶対に責任をもつから」と応戦。デマも迫害も毅然とはねつけました。
こうしてアニーは、全力で兵蔵の夢を実現していったのです。
昭和に入ると世界恐慌や満州事件がおきるなかで、日米関係は悪化していきます。
1937(昭和12)年に日中戦争が起こると、せめて自分にできることをと「戦争は絶対に避けなくてはいけません」と書いた手紙をアメリカにいる姪に送りました。
1940(昭和15)年、紀元二千六百年記念の第9回全国社会事業大会では、震災時の活動で功労者として表彰されます。反米感情が高まっていくなかでのアメリカを母国にもつアニーの表彰は、それだけアニーの人に尽くす真心と熱意が誰の目にも明らかだったためでしょう。
1941(昭和16)年8月3日、84歳のアニーは日米開戦を知ることなく、河口湖の「有隣園」でその生を閉じました。
読書が大好きで、詩をそらんじていたアニーの活動は絵だけにとどまりません。来日後、『更科日記』や『紫式部日記』『和泉式部日記』を英訳し、翻訳書も共著で出しました。
その大人びた姿、品のある佇まい。
笑顔を見せない表情には、どうしたのかなと想像力をかきたてられます。
背景には木立があるので、屋外にイーゼルを立てて描いたのでしょうか。
静かに魅入ってしまうこの絵の作者は、アニー・バロウズ・シェプリーです。
1898(明治31)年に描かれたこの絵は、それから122年後の2020(令和2)年、オーストラリアから生涯学習開発財団(以下 財団)にやってきました。
アニーの志を引き継いで
アニーの絵を購入したのは、当財団にとってアニーは大切な人だからです。アニーはボストンとパリで美術を学び、アメリカで肖像画家・イラストレーターとして活躍していました。好奇心や冒険心に富み、世話好き。そんな彼女は、使用人として雇った日本からやって来た19歳年下の留学生 大森兵蔵と意気投合。出会ってから1年ほどたった1907(明治40)年にアメリカで結婚。翌1908(明治41)年、二人そろって日本にやってきます。
来日後、当時はまだ珍しかった福祉事業に取り組んだアニーと兵蔵ですが、1913(大正2)年、結婚からわずか5年で兵蔵が急逝してしまいます。その翌年、アニーと知り合い、よき片腕となり、彼女が亡くなるまで親身に支えたのが松田竹千代でした。
竹千代は尊敬するアニーのもとで福祉事業に情熱を傾けます。このボランティアがきっかけとなり、同じくボランティアに参加していた兵蔵の姪 澄江と結婚。竹千代の娘 松田妙子は、社会貢献に熱心な大叔母アニーや父母の活躍を幼い頃から見ていました。長じて当財団の理事長に就くと、兵蔵やアニー、父母が大事にしていた志「社会のために尽くす」を事業に活かしていったのです。
そうした縁から、財団はアニーが晩年を過ごした河口湖の別荘「有隣園」を管理しており、そこにアニーの絵と蔵書を大切に保管しています。
きっかけは『いだてん』
冒頭の少女を描いた油絵と財団が出会うきっかけとなったのは、アニーや兵蔵がキャストとして登場したNHKの大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019(令和元)年放映)でした。ドラマの小道具としてNHKに時計や懐中時計のチェーンを貸したのが、オーストラリアでアンティーク時計専門店を運営されている林 誠さんです。林さんはドラマで見たアニーの人生に感動し、記念にとアニーにまつわるものを探し、アメリカの画商から彼女の絵と数冊の本を購入。自店サイトにそれらを非売品のつもりでアップします。
翌2020(令和2)年、たまたま絵の存在を知った妙子の次女 佐藤玖美が、姉で財団の事務局長 佐藤梨奈に連絡をくれます。事務局長はアニーの話を両親から聞いて育ったため、知らせを受けてパソコンの画面越しに絵を見た瞬間、「やっと会えた」、そう思ったそうです。
出会いに感動した事務局長は林さんに連絡します。財団とアニーのかかわりを話し、もしよければアニーの絵を譲っていただけないかとたずねたところ、林さんは財団なら絵の嫁ぎ先として最適だと快諾してくれました。
アニーは日本に来てからも絵を描き続け、帝展で入選もしました。しかしその多くは1945(昭和20)年の空襲で焼けてしまったので、10歳の姪を描いたこの絵は現存する兵蔵の肖像画などとともに、たいへん貴重な一枚といえます。
パワフルに取り組んだ社会事業
ここからは異国の地でのアニーの活躍を、もう少しお伝えしたいと思います。言葉も食も習慣もアメリカとはまったく違う日本での生活。アニーは毎日、日本語のレッスンを受けながら、夫婦力を合わせ、兵蔵の夢であるセツルメント運動に熱心に取り組みます。二人は約3年かけて、子どもの遊びと教育の施設「有隣園」を立ち上げました。
ところが1912(大正元)年、兵蔵は日本がオリンピック初参加となる選手団の監督に選ばれ、アニーも同行してストックホルムへ向かいます。その帰途、立ち寄った先のアメリカで、兵蔵は残念ながら帰らぬ人に……。
アニーにはそのままアメリカに残る道もありました。しかし、「ヒョウの仕事は私がやり遂げる」と日本に引き返します。
「有隣園」に戻ると、早速、園長に就任。オープンマインドで明るい性格、楽しい遊びや行事を次々に作り出すアニーに子どもたちもすぐに懐きます。竹千代を含めてボランティアも集まってきました。質の高いプログラムを組み、子どもの主体性を重んじた「有隣園」は、やがて人気幼稚園に。本物の馬や牛まで登場した「有隣園」のクリスマスは、子どもたちだけでなく近所の大人も毎年楽しみにしていました。
社会福祉の第一線で毎日現状に接するアニーは、これからは子どもだけではなく、青少年や大人のためにも本格的なセツルメント運動を始めた方がよいと考えます。子どもの環境だけを整えても、周りの大人が健康で余裕がないと元も子もないからです。そこで私財を投じ建物を増築し、夜学校や診療所まで開設しました。
1923(大正12)年におきた関東大震災では壊れずにすんだ建物を利用して、被災者の救援に奮闘。300人の迷子の面倒もみました。当時、いわれなきデマが流れて行き場を失った在日朝鮮人たちもかくまいます。そのことを密告されると、「私が絶対に責任をもつから」と応戦。デマも迫害も毅然とはねつけました。
こうしてアニーは、全力で兵蔵の夢を実現していったのです。
昭和に入ると世界恐慌や満州事件がおきるなかで、日米関係は悪化していきます。
1937(昭和12)年に日中戦争が起こると、せめて自分にできることをと「戦争は絶対に避けなくてはいけません」と書いた手紙をアメリカにいる姪に送りました。
1940(昭和15)年、紀元二千六百年記念の第9回全国社会事業大会では、震災時の活動で功労者として表彰されます。反米感情が高まっていくなかでのアメリカを母国にもつアニーの表彰は、それだけアニーの人に尽くす真心と熱意が誰の目にも明らかだったためでしょう。
1941(昭和16)年8月3日、84歳のアニーは日米開戦を知ることなく、河口湖の「有隣園」でその生を閉じました。
後悔したことはない
画業と社会貢献に生きたアニー。日本に来たのは100年以上も前です。女性の人生の多くが型にはめられていた窮屈な時代にあって、自分の意思を最後まで貫き、差別をはねのけ、人と接する姿勢がフェア。絵筆も捨てなかったその生き方は、素直にすごいなと思う方も多いのではないでしょうか。読書が大好きで、詩をそらんじていたアニーの活動は絵だけにとどまりません。来日後、『更科日記』や『紫式部日記』『和泉式部日記』を英訳し、翻訳書も共著で出しました。
今回、財団では絵といっしょに上記の翻訳書とアニーのイラストが使われた絵本も購入しています。結婚する前はかわいいイラストを描いていたアニーですが、その後におこる自身の激動の人生については、まったく想像もしていなかったでしょう。しかし晩年、アメリカにいる姪たちに送った回想録にはこう書きます。
Since then I have lived thirty years and more in Japan, more than one-third of my life, and have never regretted that daring.「わたしは人生の1/3を越える30年以上、日本で過ごしましたが、その冒険を一度も後悔したことはありません」
参考文献
公開日:2021年6月11日